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zoom RSS (増補版)517E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月〜1890年9月)

<<   作成日時 : 2017/04/11 04:59   >>

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題:(増補版)517E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月〜1890年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年〜20世紀初頭、アメリカは、1862年の奴隷解放の反
 動の中にあり、黒人の方々を、再び、虐(しいた)げ始
 めた。
  アメリカの「この人種差別のDNAは、なかなか抜け
 ない」。
  アメリカは、良い子になっている。
 アメリカと言っても、その底には「北部の・・」という
 意識が根強くある・・その様なアメリカなのである。
  南部と北部が戦った南北戦


  (字数制限の為・・中略します・・全文は、是非・・下記のブログを御覧ください)


処理したい
 という卑劣な考えのためだった。
  黒人の方々の地位をより低くとどめたいと、そして、
 奴隷解放以前の状況を作ろうとするものだった。
  黒人の方々の運動を押しつぶすのだった。
  黒人の方々への支配力を強くしたいという行為だった。
  そうする事によってよって、多くの利潤を搾出(さく
 しゅつ、しぼりだす)しようとした。
  そして、1890年〜20世紀初頭にかけて、黒人の方々の
 選挙権を剥奪した。
  憲法に触れることを回避する方法が取られるという「
 卑劣なやり方」だった。
  その様な法律を作った。
  選挙権の事実上の剥奪である。
  「読み書きテスト」をして、字の掛けない黒人の方々
 や、字の読めない黒人の方々の選挙権を剥奪(はくだつ)
 した。
  その様な事を理由として、黒人の方々へ、選挙権を与
 えなかった。
  また、「人頭税」という法律を作って、その税金を払
 えない黒人の方々への選挙権をはく奪した。
  こんな国家=アメリカ合衆国が、民主主義の国家だな
 んて言えるはずがない。
  この根本には、キリスト教による「有色人種への蔑視
 観」があった。
  そのキリスト教の教義に洗脳された者たちの悪行為だ
 った。
  キリスト教のヒエラルキー・・序列の支配する宗教=
 キリスト教は、その序列観から、何から何までの差別観
 を与えた。
  白人を・・黒人の方々や・・有色人種の・・序列を上
 とした。
  この様な差別観を与えるという・・程度の悪い宗教=
 キリスト教だった。
  ここから、有色人種の大量殺戮が生まれ、戦争が生ま
 れて行った。
1890年9月11日、川上音二郎が、東京で初の壮士芝居を行っ
 た。
  この年・1890年、、大阪俄(にわか)を改良した「書
 生仁輪加(にわか)」の一座を組織して横浜、東京で公
 演した。
  翌・1891年に、堺の卯の日座に「書生芝居」の一座を
 旗揚げし、
  同年・1891年、東京・浅草鳥越の中村座に「板垣君遭
 難実記」やオッペケペ節を演じて喝采をあびた。
  河上音二郎(かわかみおとじろう)は、1878年(14歳)
 のとき、故郷を出奔し、自由民権運動に身を投じ、自由
 党壮士となった。
  浮世亭〇〇(まるまる)と名のって自由民権論を鼓吹す
 る。
  闘争をする中で、講釈師、寄席芸人になったり、「書
 生にわか」を試みたりした。
  1891年、堺で川上書生芝居(新派劇の前身)を旗揚げ、
 地方巡演ののち『板垣君遭難実記』で東京公演に成功。
  その年・1891年、貞奴 (→川上貞奴 ) と結婚。
  『意外』『又意外』などホットニュースの上演や、日
 清戦争をあてこんだ戦争劇の連続上演で新演劇の基礎を
 確立、
  1895年に、歌舞伎座に進出するまでになった。
   世相を風刺した「オッペケペー節」は大流行し、
  1900年のパリ万博など欧米公演でも喝采を浴びた。
  1903年〜1906年、正劇と称して、シェークスピアの『
 オセロ』など西欧戯曲の翻案物を上演し、西洋演劇を日
 本に紹介し、明治新演劇運動の先駆者となった。
  4度にわたる渡欧で海外巡演もし、川上座、大阪帝国座
 など劇場を建設したり、妻と帝国女優養成所を開いたり、
 時代の機をみるに敏で、事業欲に富む波乱の一生で、
  1911年、舞台で倒れ、47歳で亡くなった。
1890年9月15日、愛国公党、自由党などが統合して立憲自由
 党が結成された(8月25日説あり)
  大同団結運動において、東京・芝に、板垣退助、河野
 広中、大井憲太郎らが参集した。
  そして、旧自由党系の愛国公党・再興自由党・大同倶
 楽部の3派に、主導する立場の九州同志会を加え、そして、
  第1回総選挙後のこの日・1890年9月15日に結成された。
  「皇室尊栄」「民権拡張」「内政簡略」「対等条約」
 「政党内閣実現」・・を、掲げた。
  党首をおかず、党指導部は、幹事5名で構成された。
  第1議会では、改進党と民党連合を形成した。
  そして、予算案をめぐって藩閥政府と対決したが、い
 わゆる、土佐派の裏切りによって、民党側は敗北を喫し
 た。
  党の統制は乱れた。
  このため 、1891年の党大会で・・、総理1名をおくこ
 と、役員は総理の指名とすることなど・・、組織改革を
 断行した。
  総理に、板垣退助が選出された。
  党名も、立憲の2文字を削り、自由党と改称した。
  これまでの動きをは・・、
  三大事件建白運動の高揚した3年前の1887年10月・・、
 後藤象二郎(しょうじろう)は、丁亥倶楽部(ていがいくら
 ぶ)を設立し・・大同団結運動を提唱した。
  運動は、その直後の保安条例の発布によって、一時停
 滞したが、
  1889年2月11日の大日本帝国憲法発布の際の大赦令によ
 って、
  福島事件・大阪事件関係の河野広中(こうのひろなか)、
 大井憲太郎(けんたろう)らが出獄し・・盛り上がった。
  しかし、同年・1889年3月の後藤の逓信(ていしん)大臣
 の入閣を機に、運動は、河野らの政社派と、大井らの非
 政社派に分裂した。
  1889年5月、政社派は大同倶楽部、非政社派は大同協和
 会を結成した。
  板垣退助(たいすけ)は、第1回総選挙を目前にして両派
 の合同を策したが実らず。
  大同協和会は、翌年・1890年1月、同会を解散して自由
 党を再興結党した。
  板垣も、1890年5月、愛国公党を組織した。
  しかし、この間、次第に、合同の気運が生まれ、
  1890年6月、自由党、大同倶楽部、愛国公党は連合し、
 庚寅(こういん)倶楽部を結成した。
  1890年7月の総選挙での民権派の圧勝を受け、
  1890年8月、三派はそれぞれ正式に解散した。
  そして、さらに、九州連合同志会も解散して、これに
 加わり、立憲自由党が結成された。
1890年9月16日、エルトゥールル号遭難事件
  木造フリゲート艦のオスマン帝国軍艦が、台風によっ
 て、和歌山県串本沖で遭難した。
  この日の夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトル
 コ)の軍艦・エルトゥールル号が、
  現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東
 方海上で遭難し、500名以上の犠牲者を出した。
  この事件は、1887年に行われた日本の皇族・小松宮彰
 仁親王の御夫妻のイスタンブール御訪問に応えることを
 目的に、
  オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて、日本へ派遣さ
 れることになったオスマントルコ帝国の使節団が来日し
 た折に起きた。
  この使節団は、1890年6月7日に横浜に入港し、
  1890年6月13日に、皇帝親書を、明治天皇陛下へ奉呈し、
 天皇陛下に拝謁した後に、帰国の途に就いたが、
  和歌山県串本町沖で、同号は、台風に遭い、座礁し、
 沈没した。
  この遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、明治天皇
 陛下へ伝えられ、言上された。
  天皇陛下は、可能な限りの援助を行なうよう指示し、
 また、直ちに、医者、看護婦の派遣をなされた。
  乗員650名の内、残念なことに581名が亡くなった。
  串本町大島の住人の方々は、台風の嵐の中、総出で必
 死の救助にあたって、69名を救出したのだった。
  そして、救出された生存者の方々を、樫野の寺や学校、
 そして、灯台に収容し、介抱に当った。
  助かった方々も、58名が負傷していて、内38名が重傷
 という大惨事だった。
  住民の方々は、食糧の貯えもわずかだったにもかかわ
 らず、タマゴやサツマイモ、それに非常用のニワトリす
 ら供出するなどして、献身的に、生存者の方々の救護に
 努めた。
  また、浴衣などの衣類も供出し救護に努めた。
  この遭難を、各新聞は、衝撃的なニュースとして伝え、
 これを知った日本の方々からも。義援金・弔慰金が、多
 数、寄せられた。
  その後、エルトゥールル号の乗組員は、神戸で順調に
 回復し、
  その後、日本海軍の巡洋艦・比叡と金剛で、トルコま
 で丁重に送り、
  1891年1月2日、オスマン帝国の首都・イスタンブール
 へと送り届けた。
  因みに、この送還した船に、秋山真之(あきやまさね
 ゆき)が乗船し、従事している。
  この報は、新聞を通じて、大島村民による救助活動や、
 日本政府の尽力が伝えられ、
  当時、トルコの方々は、遠い異国である日本と日本人
 に対して、その誠意に感謝して戴いた。
  そして、この遭難で亡くなられたトルコの方々を悼ん
 で、大きな碑「エルトゥールル号殉難将士慰霊碑」が、
 和歌山県串本町に建立された。
  現在、和歌山県串本町とトルコのヤカケント町、メル
 スィン市は、姉妹都市となっていて、この慰霊碑の他に
 もトルコ記念館も建っていて、
  町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごと
 に行われている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アラモの砦は最初から砦のつもりで造った・・
    日本は国力が出来てやっと独り立ちしたが、だが、
   列強に「がめつくしゃぶられた」。
    アメリカに卑劣な私刑が・・そして、私の殺人集団が横行する
.
1836年2月23日、アラモの戦い、(〜3月6日)
  アメリカのテキサス州は、アメリカがメキシコから奪
 った領土である。
  今のアメリカのテキサス州は、メキシコの「コアウイ
 ラ・イ・テハス州」だった。
  この地の奪い取りのために、アメリカは、アラバマ州、
 サウスカロライナ州、ノースカロライナ州、ルイジアナ
 州、ミシシッピ州、テネシー州、バージニア州などから
 兵を募って奪い取った。
  「アラモの戦い」は、この時の戦い。
  事の始まりは・・
  領土の欲しいアメリカは、初めは、調子よかった
  アメリカは、メキシコに言った・・、
  「メキシコさん、大変でしょうからテキサスを開拓し
 て差し上げましょうか?」・・と・・、
  「入植して差し上げましょうか?」・・と・・、
  メキシコの偉いところは、当時、メキシコは、「奴隷
 制をすでに禁止していた」・・、
  (アメリカの奴隷解放は、1862年だから、この年から
 まだ30年くらい経たないと、アメリカは奴隷を解放しな
 い))・・
  それ故、アメリカの様な奴隷制での開拓は、メキシコ
 は行わなかった・・、
  その様な経過で入って来たアメリカの入植者たち・・、
  トランプさんが嫌がる「移民である・・これが、その
 うちメキシコの土地を奪ってしまうのである」・・、
  やっぱり・・これきっかけとして、メキシコの領土が
 奪われて「テキサスとなってしまう地」に、アメリカの
 開拓民が入って来た。
  それも・・メキシコが、「奴隷を連れて来ては駄目だ
 よ」と言っているのに・・、アメリカは、奴隷にした人々
 まで連れて来て・・、
  アメリカからの人間の数を増やした・・移民を増やし
 た。
  そのうち・・、テキサスのメキシコ人が1万人の所に、
 アメリカからの人間が・・3万人となった頃に・・、
  アメリカ人たちは・・(元アメリカ人というのか??)
 「我々は独立します」・・と言った。
  アメリカは、最初からこの予定だった・・(国は前面
 に出ていないが・・後ろに隠れているが・・)
  そして、「アラモの砦」まで築いて、メキシコの土地
 を取ってしまった。
  この砦だって・・最初は、キリスト教会だよと・・言
 っていた・・最初から・・砦にする予定だったのだろう。
  今、アメリカの地で。「ニュー」と名前の付くところ
 は、ほとんどが、この様な卑劣なやり方で・・アメリカ
 が、奪った土地・・
  『ニューメキシコ』とか、『ニュージャージー』とか・・
 とか・・、
  アメリカの卑劣な所は・・この様なことを・・アメリ
 カの歴史を、学校で教えない・・
  だから・・「アメリカ人は、この様な事は知らない」・・
 卑劣な事である・・
  アメリカは、戦争をしてまでして「民主主義を教える
 のだ」と言って戦争をするが・・
  先ず、自国の子供たちに「この様な道徳」を教えよ・・
  「嘘ついて、他国の土地を奪っては駄目だ」と教えよ・・
  そして、正しい自国の歴史を教えよ・・
.
1894年、日清戦争の始まる直前に、日英通商航海条約が調
 印された。
  差別の条約・・不平等の条約が、改正されたのである。
  日本の内地を開放する代わりに、治外法権が撤廃され
 た。
  その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをは
 じめ各国も・・治外法権の撤廃に応じた。
  やはり、国力が付かないと、日本の弱みに付け込んで、
 日本を認めないという卑劣なアメリカなどだった。
  関税自主権の回復は、日本が、日露戦争に勝利した後、
 5年を経た、1911年に、アメリカが、やっと認め、日本の
 悲願は達成した。
  岩倉使節団の交渉から40年の月日が経っていた。
.
1894年、朝鮮南部で、農民暴動が起きた。
  「甲午(こうご)農民暴動」と呼ばれた。
  農民の暴動の原因は、「腐敗した役人の追放要求」と、
 「外国人の追放」だった。
  農民の勢いは強く、朝鮮半島の一部を制圧するほどだ
 った。
  兵力の弱い朝鮮王朝は、清国に出兵を求めた。
  日本も、清国との申し合わせにより出兵した。
  結果、日清両国の衝突が起きた。
  このぶつかり合いが、拡大して行き、日清戦争の原因
 となった。
  戦場は、拡大し続け、満州南部などに拡がった。
  これまで清国に劣勢だった日本の兵力は、この時点は、
 陸戦でも海戦でも、清国を圧倒した。
  日本は、「新兵器を装備していた」、
  また、「軍隊の訓練・規律に優っていた」、
  「日本人全体の意識が、国民として一つにまとまって
 いた」。
  ちなみに、1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する
 ときには、事前にお互いに、相手側へ通知し合うという
 条約を結んでいた。
.
1895年、下関条約が結ばれた、そして、出る杭は打たれる
 となって行く・・
  日本は、日清戦争に勝ったからって、アメリカやヨー
 ロッパの様な「自分の国が利益が得られれば良い」とい
 う利己的な条約を結んだのではなかった。
  日本は、朝鮮の事を思って、「清は、朝鮮の独立を認
 める」という条項を約させた。
  また、これまで・・問題となっていた台湾や、遼東半
 島を、日本が金を出して譲られるという形にした。
  アメリカだって、『アラスカを、金出して領有しただ
 ろう』・・それと同じ。
  日本は・・奪ったのではない・・
  日本は、当時の3年間分の財政収入に相当するという『
 大金を、清へ支払った』・・忘れないでくれ!
  これまでのアメリカやヨーロッパ諸国は、敗戦国から
 奪っていたが、『日本は、その様な事はしなかった』。
  賠償金3億円(2億両)を支払った。
  当時、清は、「眠れる獅子」と言われ、その底力は恐
 れられていた。
  海軍力においても、清国の方が大きな軍艦を持ち、ま
 た、隻数も、日本を上回る艦数を持っていた。
  世界の予想は、完全に「日本が敗けるだろう」だった。
  しかし、新興の日本に、清は敗けた。
  清が、日本に敗けると、列強諸国のアメリカやヨーロ
 ッパ諸国が、えげつなく、俺も俺もと「がつがつと食い
 はじめ」、清は餌食となった。
  清は、分割の対象となった。
  日清戦争の後でも、日本の立場は、まだ、アメリカ・
 ヨーロッパ列強の諸国から・・軽んじられていた。
  何と! 戦勝国の日本に、清国から得ていた遼東半島
 の返還の圧力がかかって来た。
  三国干渉が起きた。
  ドイツとフランスを誘ってロシアが、日本へ圧力をか
 けて来た。
  その強力な軍事力をちらつかせた。
  やることは『町のあんちゃん』の様なやり方である。
  日本は、清と一対一で対決した。
  武士の世界である。
  卑怯なグル(悪事を企てる仲間)に「つるむ」ような
 ことはしない。
  しかし、東アジアが欲しいロシアは、ドイツ・フラン
 スとグルになって三国干渉を日本にした。
  日本は、やむを得ず、遼東半島を清へ渡した。
  清は、一定額を日本へ返還した、当然である。
  そして、これから・・列強諸国は、清を蝕(むしば)
 む様な事をして行く。
  ロシアの領土欲は・・強烈だった。
  朝鮮も危なくなっていく。
  ロシアは、強力な軍事力を、この地域に転換し、拡大
 していく。
.
1895年の後、三国干渉
  日本が、日清戦争に勝って、下関条約を結ぶと、列強
 各国は黙っていなかった。
  必死に努力して国を富ませ、米欧に追い着けとやって
 きた日本。
  種々の事情から日清戦争となったが、
  この間まで、アジアの遅れた小国・日本が、
  この様な事態になると、
  東アジアで美味しい汁を吸いたい列強諸国は・・黙っ
 ていなかった。
  強力な軍事力で、日本を脅しながら、
  また、卑怯な事にグルとなって、日本へ「いちゃもん
 を付けてきた」。
  ロシア・ドイツ・フランスの三国だった(三国干渉)。「
  「遼東半島まで清国から得る」のはおかしいじゃない
 か?という言い分だった。
  「清国へ返しなさい」と言った。
  アメリカを含めて、弱い者に対して、好きに言いたい
 事を言う国々いだった。
  有色人種の日本が、『白人のマネはするな』の気持ち
 だった。
  大いにキリスト教の「有色人種蔑視」のマインド・コ
 ントロールがあった。
  アメリカは、今・現在も、「日本の皇室の皇統につい
 て」無礼な内政干渉している。
.
1947年、アメリカで、リンチ禁止法が制定された。
  リンチは、私刑(しけい)であり、
  国家ないし公権力の法と刑罰権に関係なく、
  個人、または、特定集団により行われる私的な制裁で
 ある。
  アメリカは、まったく遅れている、この法が、やっと、
 1947年になって制定された。
  リンチによって、アフリカ系アメリカ人の何人が殺さ
 れたというのか、まったく、憤りに堪えない。
  今でも、KKK(クー・クラックス・クラン)という
 黒人の方々をターゲットとして殺す『白人組織』がアメ
 リカにはある
  また、奴隷にされた黒人の方々が、素行が悪いとか、
 共同体の規範を乱(みだ)すとかの言い掛かりで、虫け
 らの様に殺された。
  この法律の出来る背景に、1946年に、黒人の方々に対
 するリンチが多発するアメリカだった。
  あまりの酷さに・・アメリカ大統領は、調査を目的に、
 公民権委員会を任命したのだった。
  アフリカ系アメリカ人を、「二級市民」だと差別する
 実態などが・・「公的に認知されるという、おぞましさ
 だった」。
  (参考)おぞましい:接する状態に恐怖・嫌悪を覚え、
    そこから逃れたい、嫌な感情の状態。
  また、この頃、ソ連との冷戦で、アフリカ・アジアで、
 共産主義政策を採用するの発展途上国が急増していた。
  オランダやフランスやイギリスは、日本に解放された
 アジアの植民地諸国を奪い返す為に、軍隊を派遣し、酷
 い事に数百万人の独立派を弾圧した。
  第二次世界大戦で、散々、酷(むご)い戦争をしてき
 たのにである。
  日本兵の多くも、アジアの国々の独立を勝ち取ろうと、
 独立を助けようと・・日本へ帰国せずに残った。
  アメリカ大統領のトルーマンは、ソ連と情報戦に負け
 ない情報機関を作りたいと・・OSSを中心に諜報機関
を統合して、『CIA』を創設した。
  情報戦は、「人間不信であるの原則」から、二重スパ
 イを警戒した。
  それ故、CIAの暴走を監視する為に、「FBI」、
 「陸・海・空軍における別個の諜報機関」など・・「数
 多くの組織」を設置して敵対させた。
  現在、NSC(国家安産保障会議)には、15の情報機
 関のトップが出席している。
  CIAの情報収集担当者は、5,000人以上も居て、その
 下に事務員を含めて30,000人前後の専用職員がいる。
  そして、世界中の工作員を含めれば、50,000人以上と
 なっている。
  そして、機密費を含め、莫大な予算が組まれている。
  敵の機密情報を得る為には、相手を味方に引き込む事
 が最善の方法として、マネー(M)と、イデオロギー(
 I)と、コンプロマイズ(C、強制的服従)と、エゴ(
 E、欲)を最大限に利用している。
  諜報工作員の大原則は、日本人が最も嫌う、家族・友
 人・同僚までも疑う「人間不信」で、
  国家機密情報を守る為には、他人はおろか家族友人で
 も殺害する「冷血な非情さ」で・・、
  その様な様相からか・・? 日本の政治家は、情報機
 関はおろか諜報機関も作らない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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