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zoom RSS (増補版)515E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年7月〜1890年7月)

<<   作成日時 : 2017/04/07 04:22   >>

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題:(増補版)515E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年7月〜1890年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年7月27日、偉大な画家フィンセント・ファン・ゴッホ
 が、悲しいかな、この日に、猟銃で自殺をした。
  歴史に大きな足跡を残した画家、ファン・ゴッホ・・
  その人生は・・幸せだったのだろうか・・?
  この日・・可哀想に、1890年7月27日、猟銃により自ら
 を撃ち、そして、2日後の7月29日に亡くなった。
  キリスト教の牧師の家庭に生まれたファン・ゴッホ・・、
  生誕は、1853年3月30日・・それ故、37歳4ヶ月の短い
 人生だった。
  弟のテオドルス・ファン・ゴッホは、この兄を一生懸
 命に支えた。
  (この弟は、1857年5月1日生まれ、4年1ヶ月の年齢差
 の弟だった。
  そして、驚くべきことに、この弟のテオも、この兄を
 追うように、5か月後に亡くなっている。
  33歳8か月の命だった・・
  この兄弟の命は、共に、あまりにも短かった)
  兄を失ったこの時は、33歳3ヶ月だった。
  ファン・ゴッホ・・その人生は・・幸せだったのだろ
 うか・・?
  彼の人生を辿ってみると・・、
  1860年(7歳)ズンデント村の学校に入る。
  自然をよく観察し、そして、よく絵を描く、その才能
 を感じさせる子供だった。
  1864年(11歳)寄宿学校に入り、親元を離れる。
  1866年9月(13歳)国立高等市民学校に進学する。
  パリで成功した画家が、ここで教えていた、この画家
 に、絵を習ったという。
  1868年(15歳)1年を残して学校をやめ、家に帰る。
  理由は不明。
  後に(30歳の時に)、弟のテオに書いた手紙には、「
 僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いてい
 る。
  1869年7月(16歳)叔父の助力で、画商に勤め始めたが、
 約4年後の1873年(20歳)に解雇されている。
  この時のことについて・・「2年間は割と面白くなかっ
 たが、最後の年はとても楽しかった」と書いている。
  1872年夏(19歳)まだ学生だったテオが、ハーグに居
 るファン・ゴッホの所を訪ね、数日、滞在した。
  職場でも、両親との間でも、孤立感を深めていたファ
 ン・ゴッホは、この時、弟との親しみは深まった。
  ファン・ゴッホにとって思い出の深い日々であった。
  後に、鮮やかな思い出として回想している・・、
  レイスウェイクまでの散歩、にわか雨に会って風車小
 屋でミルクを飲んだこと・・などなど、
  ファン・ゴッホは、テオに手紙を書き・・書簡のやり
 取りが始まった。
  この10代後半の時代に、美術

  (字数制限の為・・中略します・・全文は、是非、下記のブログを御覧ください)


  年間に渡って描き続けた農夫の人物画
 の集大成として完成させ、自らが着想した独自の画風を
 具体化させた。
  ファン・ゴッホ自身は大きく満足していたが、テオを
 含め周囲からは理解が得られなかった。
  友人ラッパルトからも、人物の描き方など色々と手紙
 で厳しい批判を受けた。
  ファン・ゴッホも、手紙で強い反論の返事を書き、二
 人は絶交に至る。
  1885年5月初め、牧師館から出て、前から借りていたア
 トリエに移る。
  1885年夏、農家の少年と一緒に村を巡り、鳥ミソサザ
 イの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描く。
  ファン・ゴッホの絵のモデルの女性との関係を疑われ、
 カトリック教会から、「ゴッホの絵のモデルになるな」
 と村人たちへ告げられる。
  1885年10月、アムステルダムの国立美術館で、レンブ
 ラント、フランス・ハルス等の大画家の絵を見直す。
  モデルになってくれる村人を見つけることが出来なく
 なっている。
  また、部屋を借りていたカトリック教会の管理人から
 契約を打ち切られる。
  1885年11月、やむを得ず、ニューネンを去る。
  残された多数の絵は、母親によって二束三文で処分さ
 れた。
  弟のテオは、兄の援助をし続け、弟の援助を受けなが
 ら絵を描き続けた。
  1886年2月(33歳)弟を頼ってパリに移る。
  この時は、前ぶれなく夜行列車でパリへ向かった、そ
 して、モンマルトルの弟の部屋へ、そして、住み込んだ。
  1886年6月、優しい弟のテオ、二人では狭い部屋のため、
 ルピック通りのアパルトマンに、二人で転居した。
  同居となり、二人の手紙のやり取りが無いので、この
 パリ時代は、動静が不明状態の期間となる。
  しかし、テオとの口論は、しばしばあったようだ。
  1887年3月(34歳)テオが妹へ、「うまく行っていたの
 は過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい」という意
 味の苦悩を伝えている。
  ファン・ゴッホは、この頃から、印象派や新印象派の
 画風を積極的に取り入れる様になり、絵の色調が明るく
 なる。
  テオも、これを評価する。
  ファン・ゴッホは、テオが画商として作品を購入する
 ので、その関係もあって、画家との関係を持った(ファ
 ン・ゴッホ兄弟との親交)
  ファン・ゴッホが絵の具を買うタンギー爺さんの店も、
 若い画家たちの交流の場となっていた。
  また、ファン・ゴッホは、プロヴァンス通りの店で、
 多くの日本版画を買い集めた。
  この頃、日本の浮世絵にも関心を持つ、作品「おいら
 ん(1887年9月〜10月)」
  また、ファン・ゴッホは、「パリ・イリュストレ」誌
 の日本特集号を、表紙が擦り切れるほど愛読していた。
  この日本好きは、ベルナールも影響を大きく与えてい
 た。
  1887年11月、ポール・ゴーギャンが、カリブ海のマル
 ティニークからフランスへ帰国し、テオ兄弟とも交流す
 る様になる。
  作品:「タンギー爺さん(1887年)」「ひまわり(1888
 年8月)」「夜のカフェテラス(1888年9月)」など・・、
  この頃、名作を次々に生み出した。
  1888年2月20日(35歳)弟のもとを去って、南フランス
 のアルルへ・・、
  この頃のファン・ゴッホのベルナールへ宛てた手紙に・・
 「この地方は、大気の透明さと明るい色の効果のため、
 日本みたいに美しい・・、
  水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み
 出し、まるで、日本版画に見る風景のようだ」・・と書
 いている。
  1888年3月、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ
 橋を描く、「アルルの跳ね橋」(クレラー・ミュラー美
 術館所蔵)
  また、アンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と・・花の
 季節の移ろいに合わせて・・果樹園を次々に描いた。
  この年1888年・5月、宿から高い支払いを要求された・・
 その為に転居・・、
  転居先には、ベッドなどの家具は無かった・・
  この頃、ゴーギャンが、経済的苦境にあることを知っ
 て・・、この家で、二人で、自炊生活すれば、弟からの
 送金で何とかやり繰りできる・・と、ゴーギャンに提案
 を書き送っている・・優しい、友達想いのファン・ゴッ
 ホだった。。
  この年・1888年7月(35歳)、アルルの少女をモデルに
 描いた肖像画に、ピエール・ロティの「お菊さん」を読
 んで知った日本語を使って「ラ・娘」という題を付けた
 絵を描いた。
  同じく、この月に、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像
 画を描く。
  1888年8月、「ひまわり」を4作続けて制作。
  1888年9月、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガー
 ルを描いた、「夜のカフェ」を3晩徹夜で描く。
  ファン・ゴッホは、手紙の中で、「『夜のカフェ』の
 絵で、僕は、カフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂っ
 た人となり、罪を犯すようになりやすい所だということ
 を表現しようと努めた」・・と書いている。
  1888年9月8日に、弟から金が贈られて来る。
  そして、この金で、ゴーギャンとの共同生活の準備の
 ため、ベッドなどの家具を買いそろえた。
  1888年9月下旬、「黄色い家」を描く。
  ゴーギャンが来るまでに自信作を描きたいという気持
 ちからだった。
  この頃、弟に送金を、度々、催促する。
  制作も重ねた。
  過労気味となり憔悴する。
  1888年10月23日、ゴーギャンが来る。
  二人が一緒に絵を描く行動が始まる。
  ゴーギャンは、ファン・ゴッホに、まったくの想像で
 絵を描くことを勧める。
  ファン・ゴッホは、思い出によって「母と妹がエッテ
 ンの牧師館を歩いている絵」などを描いた。
  しかし、この想像の絵は、満足できるものではないと
 弟のテオに伝えている。
  1888年11月下旬(35歳)「種まく人」2点を描いた。
  制作を続ける中で、次第に、2人の関係は緊張するよう
 になった。
  ゴーギャンは、ベルナールへ、
  「ヴァンサン(ファン・ゴッホ)と私は、概して意見
 が合う事がほとんどない。
  ことに絵ではそうだ。
  彼は、私の絵がとても好きなのだが、私が描いている
 と、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す・・
  色彩の見地から言うと、彼は、モンティセリの絵のよ
 うな厚塗りをめくらめっぽうをよしとするが、私の方は、
 こねくり回す手法が我慢ならない・・」・・などなどと、
 不満を言った。
  そして、12月下旬、ゴーギャンはテオに、
  「いろいろ考えた挙句、私は、パリに戻らざるを得な
 い。
  ヴァンサンと私は、性格の不一致のため、寄り添って
 平穏に暮らして行くことは絶対できない。
  彼も私も、制作のための平穏が必要です」と、書き送
 っている。
  ファン・ゴッホもテオに、
  「ゴーギャンは、このアルルの仕事場の黄色の家に、
 とりわけ、この僕に、嫌気がさしたのだと思う」と書い
 ている。
  1888年12月23日、耳たぶを切り落とす事件が発生する。
  この事件は、新聞にも報道された。
  「哀れな精神異常者の行為でしかありえない」との通
 報を受けた警察は、ベッドに横たわっているファン・ゴ
 ッホを発見した。
  そして、直ちに、病院に収容された・・と報じている。
  この翌日の1888年12月24日に、ゴーギャンは、電報で
 テオをアルルに呼び寄せてから、パリへ帰った。
  テオは、ちょうどこの頃、婚約を決めたばかりだった
 から・・、
  テオは、アルルに夜行列車で急行し、兄を病院へ見舞
 うと、すぐにパリへ戻った。
  容態は、快方に向かう。
  1889年1月2日、ファン・ゴッホは、テオへ、
  「あと数日、病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻
 れるだろう。
  何よりも心配しないでほしい。
  ゴーギャンのことだが、僕は、彼を怖がらせてしまっ
 たのだろうか。
  なぜ、彼は、消息を知らせてこないのか」と書いた。
  1889年1月7日(36歳)に、退院した。
  退院して、耳に包帯した自画像などを描いた。
  ファン・ゴッホは、耐えられない幻覚はなくなったと、
 テオに書いているが、
  1889年2月7日になると、自分は毒を盛られている。
  至る所に囚人や毒を盛られた人が目につくなどと訴え
 たことから、
  近所の人が警察に伝え、病院に収容された。
  1889年2月17日に、仮退院したが・・、
  住民から市長に、「オランダ人風景画家が、精神能力
 に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、
 住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、
  家族が引き取るか、精神病院に収容するよう求める請
 願書が提出された。
  1889年2月26日、警察署長の判断で、再び、病院に収容
 された。
  1889年3月23日までの約1か月間は、単独病室に閉じ込
 められた。
  絵を描くことも禁じられた。
  1889年4月18日が、テオの結婚式で、テオも新居の準備
 などで忙しく、便りの無い状態となった。
  ファン・ゴッホは、結婚するテオに見捨てられるとの
 孤独感に苦しんだ。
  家主から、「黄色い家」の立ち退きを求められた。
  荷物を片付けたが、その時、不在の間に、多くの作品
 が、湿気などのため損傷している事に、落胆せざるを得
 なかった。
  1889年4月下旬、テオに、サン=レミの精神病院に移る
 気持ちになったので、手続きを取ってほしいと手紙で頼
 んだ。
  この病院の院長は、「これまでの経過全体から、ファ
 ン・ゴッホ氏は、てんかん発作を起こしやすい、と私は
 推定する」と記録している。
  病院で絵を描いた。
  イチハツの群生やアイリス、そして、麦畑やアルピー
 ユ山脈の山裾の斜面、オリーブ畑や糸杉、「星月夜」を
 制作・・「オリーブ畑」「キヅタ」・・
  ファン・ゴッホは、
  「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自
 由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表
 出しようとする仕事だ」と述べた。
  テオは、その兄の作について、
  「これまでになかったような色彩に迫力があるが、ど
 うも行き過ぎている。
  むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求すること
 に没頭すると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険
 がある」と心配している。
  1889年7月初め(36歳)、ファン・ゴッホは、弟の妻が
 妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送るが、複雑
 な心情をのぞかせている。
  1889年7月(36歳)再び、発作が起きた。
  1889年8月22日に、ファン・ゴッホは書いている、「再
 発はないと思っていたところなので、苦悩は深い。
  ・・完全に自失状態だった。
  今度の発作は、野外で風の吹く日、絵を描いている最
 中に起きた」・・と。
  1889年9月初め、意識は清明に戻る。
  自画像、「麦刈る男」などを描く、
  また、サン=レミのプラタナス並木通りの道路工事な
 どを描く・・、
  1889年のクリスマスの頃、再び、発作が起きた。
  この時は、収まるまで1週間程度かかった。
  1890年1月下旬(37歳)、アルルへ旅して、戻って来た
 直後も、発作に襲われた。
  1890年2月、テオの息子が、1月31日に生まれたのを祝
 って、「花咲くアーモンドの木の枝」を描いて送ってい
 る。
  1890年2月下旬、ゴーギャンとの共同生活時代にスケッ
 チしたジヌー夫人の絵を描く、
  そして、その絵を、ジヌー夫人自身に届けようとアル
 ルに出かけた。
  その時、また、再び、発作が起き、意識不明となった。
  1890年4月、病院の院長がテオへ、
  「ある時は、自分が感じていることを説明できるが、
 何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わし気な
 様子になって、何も答えなくなる」と、伝えている。
  また、1890年5月、院長の記録には、
  「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵
 の具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに油を注入
 している時、その灯油を飲もうとしたりなど、
  数回にわたって服毒を試みた。
  発作のない期間は、患者は、まったく静穏かつ意識清
 明であり、熱心に画業に没頭している」・・と記載され
 ている。
  この頃、ファン・ゴッホの絵画は、少しずつ評価され
 るようになっていた。
  1890年2月の展覧会で、『赤い葡萄畑』が初めて400フ
 ランで売れた。
  テオは、そのことを、兄のファン・ゴッホへ伝えた。
  1890年3月、パリでのアンデパンダン展で、ゴーギャン
 やモネなど多くの画家から高い評価を受けたと、テオは、
 兄に書き送った。
  1890年5月、体調が回復し、ピサロと親しい医師を頼っ
 て、パリ近郊のオーベル=シュル=オワーズに転地する
 事にした。
  「糸杉と星の見える道」を描き終わってから、5月16日
 に、サン=レミの精神病院を退院した。
  翌日、パリに着き、数日間、テオの家で過ごした。
  しかし、パリの騒音と気疲れから、早々に、オーベル
 (フランス、オーベル・シュル・オワーズ)へ向かった。
  1890年5月20日、ファン・ゴッホは、オーベルの農村に
 着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。
  ファン・ゴッホは、ガシェ医師の事を、
  「非常に神経質で、とても変わった人だが・・体格の
 面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、ま
 るで、新しい兄弟みたいな感じがして、まさに、新しい
 友人を見い出した思いだ」と、妹のヴィルへ書いている。
  そして、好きな絵を描いて過ごしている。
  テオに、オーベルの素晴らしさを強調する手紙を書い
 ている。
  そして、テオへ、こちらに来なさいと・・、
  そして、何年も一緒に生活したいと、ファン・ゴッホ
 の夢は膨らんだ。
  1890年6月8日、パリから、テオと妻のヨーが、息子を
 連れて一緒にオーベルを訪れた。
  食事をしたり、一緒に散歩をしたりと・・
  ファン・ゴッホは、「とても楽しい思い出を残してく
 れた・・また、近いうちに戻って来なくてはいけない」
 と書いている。
  1890年6月30日、テオが、ファン・ゴッホへ、仕事上の
 意見対立や、友人と共同で自営の画商を営むのが良いの
 かを迷っていると、
  また、ヨーと息子が体調を崩しているなどと、悩みを
 吐露した長い手紙を書き送った。
  1890年7月6日、ファン・ゴッホは、パリを訪れた。
  この時、ロートレックやアルベールやギヨマンも来る
 はずだったが、
  ファ・ンゴッホは、「やりきれなくなったので、その
 訪問を待たずに、急いで、オーベルへ帰って行った」と
 いう。
  この時、ファン・ゴッホは、テオやヨーとの間で、何
 らかの話し合いがされたようだが、ヨーはその詳細を語
 っていない。
  1890年7月10日、ファン・ゴッホは、テオとヨー宛てに、
  「こちらへ戻って来てから、僕もなお悲しい思いに打
 ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が、自分の上にも重
 くのしかかっているのを感じ続けていた」と書き送った。
  また、「カラスのいる麦畑」「荒れ模様の麦畑」など
 を描き上げたことを伝えている。
  また、ファン・ゴッホは、その後にも、テオの「激し
 い家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(
 手紙は現存していない)
  1890年7月22日、テオは、ファン・ゴッホに、共同自営
 問題について、ドリースとの議論はあったが、激しい家
 庭のもめ事など存在しないという手紙を送っている。
  そして、ファン・ゴッホの最後の手紙となる7月23日の
 手紙で、
  「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可
 能性も、それを脅かす嵐の可能性も、僕には、同じよう
 に納得できる」などと書き送った。
  1890年7月22日の日曜日の夕方、怪我を負ったファン・
 ゴッホが、オーベルの旅館に帰り着いた。
  旅館の主人に呼ばれたガシェ医師は、彼の様態を見た、
 傷は猟銃による銃創だった。
  弾丸は、左脇腹の下から撃たれ、心臓をそれているが、
 移送も外科手術も無理と判断された。
  絶対安静で見守ることとした。
  ガシェ医師は、手紙でテオへ連絡した。
  翌28日の朝、テオは、パリで手紙を受け取った、兄の
 もとへ急行した。
  テオが着いたときには、まだ、ファン・ゴッホの意識
 はあり、話す事ができた。
  しかし、29日、午前1時30分に・・死亡した。
  1890年7月30日に、葬儀が行われ、テオの他、ガシェ、
 ベルナール、シャルル・ラベル、ジュリアン・フランソ
 ワ・タンギーなど、12名ほどが参列した。
  テオとファン・ゴッホが会話した最後の言葉の一つは、
 「このまま死んでゆけたらいいのだが」・・だった。
  そして、何と、弟のテオは、兄を追うように、この5ヶ
 月後の、1891年1月25日に、亡くなった。
  1914年4月、ヨーの手によって、テオの遺骨を移し、
 テオの墓地を移し、兄弟一緒の墓石が並ぶような墓地と
 された。
  尚、ファン・ゴッホは、自殺ではないという説がある。
  少年の持った拳銃が暴発したのだ・・という。
  それは、弾の入射角が不自然ということから、その様
 に言えるという、
  ファン・ゴッホが、少年を庇(かば)っているという。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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